2021年08月22日
元輝ジンジンジュース
昨日から3分粥の調整食がスタートし、今朝で4食目が終了しました。腹の管から出てくる液も今のところ透明なリンゴジュース状態で良好です。これがバナナジュースになるとアウトです。

脂質調整食の食事には、2本のジュースがついてきます。野菜ジュース、ジョア、ヤクルトのいずれか1本と、写真の「元気ジンジン」ジュース1本です。「元気ジンジン」ジュースはレモンとアップルの2種類のようです。面白いネーミングなので、これはこれから取っておいて、「じいじがんばれ」と折り紙をくれた孫ちゃんへのお土産にしたいと思います。


脂質調整食の食事には、2本のジュースがついてきます。野菜ジュース、ジョア、ヤクルトのいずれか1本と、写真の「元気ジンジン」ジュース1本です。「元気ジンジン」ジュースはレモンとアップルの2種類のようです。面白いネーミングなので、これはこれから取っておいて、「じいじがんばれ」と折り紙をくれた孫ちゃんへのお土産にしたいと思います。
Posted by きこりや at
09:00
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2021年08月21日
久しぶりの食事
待ちに待った?食事が出てきました。

ほぼほぼ噛む必要のないものですが、久しぶりに感じた「味」は格別です。
ジュースはおやつに取っておいて、それ以外はあっという間にペロリと平らげました。
ちょっと胃袋がびっくりしている感じはありますが大丈夫でしょう。
問題はこの後。腹の管から濁った水が出てこないことを期待して高校野球をTV観戦します。
ちなみに、母校も今日秋季大会地区予選の1回戦を迎えます。
この夏は何もお手伝いできなかったけれど、頑張ってもらいたいです。
ほぼほぼ噛む必要のないものですが、久しぶりに感じた「味」は格別です。
ジュースはおやつに取っておいて、それ以外はあっという間にペロリと平らげました。
ちょっと胃袋がびっくりしている感じはありますが大丈夫でしょう。
問題はこの後。腹の管から濁った水が出てこないことを期待して高校野球をTV観戦します。
ちなみに、母校も今日秋季大会地区予選の1回戦を迎えます。
この夏は何もお手伝いできなかったけれど、頑張ってもらいたいです。
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08:58
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2021年08月20日
もうひと踏ん張り・・・かも
担当のお医者さんから、明日に調整食を始めてみますといわれました。そこから一週間かけて通常食に戻し、その間なにごともなければ腹のドレン(管)が抜ける見通し。したがって順調にいってあと10日くらいかかる感じです。ただし順調にいってというところがミソで、今回の入院は予定通りだとこうなるという分岐点ではすべて予定でない方にレールが敷かれてきているので、3度目ならぬ4度目の正直となるか、2度あることは3度あったので、3度あったことは当然4度あるとなるか、まったく予断を許しません。邪念を捨てて甲子園のTV観戦に集中し、とにかく時間を費やすことしかありません。毎日37度台の微熱ですが、特にだるさもないので、ベッド上で体幹トレーニングもどきを始めました。首と腹に管が刺さっている状態での体幹トレーニングの様子は、自分で想像しても笑えます。
Posted by きこりや at
07:33
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2021年08月19日
高校野球が最後まで無事に行けますように
入院中の最大の楽しみともいえる甲子園のTV観戦。連日の雨でなかなか日程が進みません。加えてコロナ感染のため出場辞退する学校も出てくるなど、まさに踏んだり蹴ったりの状況です。先日大雨の中で行われた大阪桐蔭ー東海大菅生も途中で降雨コールドという結果のほかにもう一つ残念なことがありました。アルプススタンドで応援予定だった大阪桐蔭吹奏楽部の中でコロナ感染が見つかり、録音での演奏となったことです。退職して以来、コロナで行けなくなるまで春夏6回連続で甲子園に野球観戦に行っていました。現地観戦の楽しみの一つが、全国トップクラスの吹奏楽部による応援の演奏を聴くことです。習志野高校吹奏楽部の「美爆音」はじめ多くの人気校がありますが、私は大阪桐蔭高校の編曲、演奏に魅了されました。(一番多く聞いているからかもしれませんが)
今回も楽しみに試合を観戦していたのですが、おの大阪桐蔭なのにどうも吹奏楽の音が目立たないため調べてみるとそういうことだったのです。大会期間中に応援参加できるところまで状況が好転することを願います。今回は作新学院の吹奏楽部も楽しみにしています。
振り返ってみると、3年前の100回大会の時は完全にはまっていました。私の観戦パターンは、準々決勝予定日を挟んだ2,3日間の日程です。その時も、準々決勝を観戦し、その日のうちに関空まで移動、空港内のソファで一晩つぶして翌朝のPeachで仙台まで帰ってくる予定でした。ところがあの年は吉田輝星君を擁する金足農業高校が大活躍、準々決勝で近江高校を破ってベスト4入りしました。

迷いに迷った結果、Peachをキャンセルし、二日後の空席を1つ確保して残留することにしました。Peachは、最安のプランだと片道7000円程度で仙台ー関空を運んでくれますが、その代わり便の変更はできず、一円も戻りません。
そうして迎えた二日後の準決勝。何と金農は日大三高も撃破して決勝進出を決めたのです。ここまで来たら最後まで!ということで再びPeachをキャンセル。深紅の大優勝旗が白河の関を超える瞬間を見届ける決心をしたのでした。
結果はご存じの通り、最強世代といわれた大阪桐蔭の圧勝でしたが、素敵な夢を見せてもらった瞬間でした。

内野席の再前列、ブルペンの目の前の席で観戦しましたが、さすがの吉田君もあさから疲労感いっぱいの様子でした。

今回も楽しみに試合を観戦していたのですが、おの大阪桐蔭なのにどうも吹奏楽の音が目立たないため調べてみるとそういうことだったのです。大会期間中に応援参加できるところまで状況が好転することを願います。今回は作新学院の吹奏楽部も楽しみにしています。
振り返ってみると、3年前の100回大会の時は完全にはまっていました。私の観戦パターンは、準々決勝予定日を挟んだ2,3日間の日程です。その時も、準々決勝を観戦し、その日のうちに関空まで移動、空港内のソファで一晩つぶして翌朝のPeachで仙台まで帰ってくる予定でした。ところがあの年は吉田輝星君を擁する金足農業高校が大活躍、準々決勝で近江高校を破ってベスト4入りしました。
迷いに迷った結果、Peachをキャンセルし、二日後の空席を1つ確保して残留することにしました。Peachは、最安のプランだと片道7000円程度で仙台ー関空を運んでくれますが、その代わり便の変更はできず、一円も戻りません。
そうして迎えた二日後の準決勝。何と金農は日大三高も撃破して決勝進出を決めたのです。ここまで来たら最後まで!ということで再びPeachをキャンセル。深紅の大優勝旗が白河の関を超える瞬間を見届ける決心をしたのでした。
結果はご存じの通り、最強世代といわれた大阪桐蔭の圧勝でしたが、素敵な夢を見せてもらった瞬間でした。
内野席の再前列、ブルペンの目の前の席で観戦しましたが、さすがの吉田君もあさから疲労感いっぱいの様子でした。
Posted by きこりや at
07:53
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2021年08月18日
愛車遍歴 【奥さん編】
夫婦で1台の時期から一人1台に変わってからの我が家の奥さんの車は、「安全安心、旅行にはこれで行く」が一番のテーマでもあったような気がします。というのも、私の愛車は常に10年以上経過している修理しながら乗るのが前提の車でしたから。
【ミニカトッポ】、【パジェロ・ミニ】の後に続くのは、
【シボレークルーズ】


スズキスイフトのフレームにGMデザインのボディが載った車です。高めの車高、シートヒーターなんかもついていて、冬場も快適な車でした。
【アコードワゴン】

これは、奥さんのではなく、就職した娘が「カッコいいから乗りたい」ということで仙台の中古車屋さんをかなり探し回って24万円で購入したのですが、実は結構なモンスターでした。Vtecエンジン搭載でふけ上りのいいこと。しかし、「長すぎて運転しにくい」と、娘はお母さんのシボレークルーズを横取り。奥さんが載ることになったものです。時々私も通勤に使ってぶっ飛ばしてました。
【マツダ・デミオ】

クリーンディーゼル搭載、スカイアクティブ技術によりすべての面を研ぎ澄ました車ということで「人馬一体」のキャッチフレーズでコマーシャルされた車です。ディーゼルターボの力強い加速、乗り心地、多くの快適装備・・と完成度の高い車でした。
【現行車・日産ノートe-power Autec仕様】

1200㏄エンジンは発電専用、100%モーターで走る車です。Autecというスポーツチューンも加えました。16インチタイヤ、ボディやフレームの剛性アップ、エンジンコンピュータ、サスペンションのスポーツタイプへのチューニングなどが施されています。
この車の加速は、これまで乗った車の中で1番です。ちょっと大げさに例えれば、ミニ四駆です。スイッチを入れた瞬間に最高回転で回り始めるあの感じ。日産のリーフに載っているいるモーターはさらに強力だということなので、一度フル加速を体感してみたいです。
以上、これで今まで乗ってきた車のすべての紹介が終わりました。
【ミニカトッポ】、【パジェロ・ミニ】の後に続くのは、
【シボレークルーズ】


スズキスイフトのフレームにGMデザインのボディが載った車です。高めの車高、シートヒーターなんかもついていて、冬場も快適な車でした。
【アコードワゴン】

これは、奥さんのではなく、就職した娘が「カッコいいから乗りたい」ということで仙台の中古車屋さんをかなり探し回って24万円で購入したのですが、実は結構なモンスターでした。Vtecエンジン搭載でふけ上りのいいこと。しかし、「長すぎて運転しにくい」と、娘はお母さんのシボレークルーズを横取り。奥さんが載ることになったものです。時々私も通勤に使ってぶっ飛ばしてました。
【マツダ・デミオ】
クリーンディーゼル搭載、スカイアクティブ技術によりすべての面を研ぎ澄ました車ということで「人馬一体」のキャッチフレーズでコマーシャルされた車です。ディーゼルターボの力強い加速、乗り心地、多くの快適装備・・と完成度の高い車でした。
【現行車・日産ノートe-power Autec仕様】

1200㏄エンジンは発電専用、100%モーターで走る車です。Autecというスポーツチューンも加えました。16インチタイヤ、ボディやフレームの剛性アップ、エンジンコンピュータ、サスペンションのスポーツタイプへのチューニングなどが施されています。
この車の加速は、これまで乗った車の中で1番です。ちょっと大げさに例えれば、ミニ四駆です。スイッチを入れた瞬間に最高回転で回り始めるあの感じ。日産のリーフに載っているいるモーターはさらに強力だということなので、一度フル加速を体感してみたいです。
以上、これで今まで乗ってきた車のすべての紹介が終わりました。
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08:41
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2021年08月17日
愛車遍歴 ラスト
【大容量化~再びの軽ライフへ】
3年から4年のサイクルで巡ってくる「次何にしようか病」で、ネットを徘徊していた時にたまたま見つけたのは

やはり10年近く前のアメ車、シボレーのタホでした。角ばったスタイルがカッコいい!実際の車は4枚ドアだったので、写真よりも数十センチ長いです。平成22年にネットオークションで60万円程度で落札。滋賀から嫁いできました。ちなみに2代目アストロはやはりネットオークションで20万円でお買い上げいただきました。タホは排気量5000㏄、燃料タンクはほぼ100ℓ。翌年の東日本大震災の時にはたまたま満タンにしていたため、ちびちびと抜き取りながら軽自動車やバイクに補充して急場をしのぎました。また、このタホとともに2年間の北海道苫小牧勤務も経験し、休日を利用して北海道のあちこちめぐることもできました。
岩手に戻った年に、今回の入院の大元にもなっている大腸がん、転移性肝臓がんと続けて2度の手術を受けたわけですが、それも落ち着いた翌平成27年にはやはり「次何にしようか病」が発症しまた見つけてしまった衝撃のかっこよさ。
フロントビューは言わずと知れた「アメリカ大統領車」ビーストことキャデラック・ワンと同じ、キャデラック・エスカレード6000㏄です。これは、やはり作りこみがアストロやタホとは明らかに違いました。高速でのコーナリングや時速80キロからの加速などは別次元を体験させてくれました。
神奈川からの出品で、十年落ちのエスカレード80万円での落札でした。タホは、またオークションで20万円でお買い上げいただきました。
けっこう長く楽しんだアメ車生活ですが、平成29年の退職を機に終焉を迎えます。チームの野球道具を積み込む必要もなくなり、収入に応じた燃費(笑)の車にしようということと、山仕事にも使えるということでジムニー探しが始まります。結果的にエスカレードは40万円でお買い上げいただき、ジムニーは群馬からの出品されていた平成5年のJA11を12万円で落札。再びの軽ライフに戻りました。今後も、ジムニーとサンバーの2台を大事に乗り続けていくつもりです。

写真は群馬に引き取りに行った時の物です。
今回で私の愛車遍歴は終わりですが、まだ入院が長引きそうなので、次回は奥さん編でも書こうかなと思います。
3年から4年のサイクルで巡ってくる「次何にしようか病」で、ネットを徘徊していた時にたまたま見つけたのは

やはり10年近く前のアメ車、シボレーのタホでした。角ばったスタイルがカッコいい!実際の車は4枚ドアだったので、写真よりも数十センチ長いです。平成22年にネットオークションで60万円程度で落札。滋賀から嫁いできました。ちなみに2代目アストロはやはりネットオークションで20万円でお買い上げいただきました。タホは排気量5000㏄、燃料タンクはほぼ100ℓ。翌年の東日本大震災の時にはたまたま満タンにしていたため、ちびちびと抜き取りながら軽自動車やバイクに補充して急場をしのぎました。また、このタホとともに2年間の北海道苫小牧勤務も経験し、休日を利用して北海道のあちこちめぐることもできました。
岩手に戻った年に、今回の入院の大元にもなっている大腸がん、転移性肝臓がんと続けて2度の手術を受けたわけですが、それも落ち着いた翌平成27年にはやはり「次何にしようか病」が発症しまた見つけてしまった衝撃のかっこよさ。
フロントビューは言わずと知れた「アメリカ大統領車」ビーストことキャデラック・ワンと同じ、キャデラック・エスカレード6000㏄です。これは、やはり作りこみがアストロやタホとは明らかに違いました。高速でのコーナリングや時速80キロからの加速などは別次元を体験させてくれました。
神奈川からの出品で、十年落ちのエスカレード80万円での落札でした。タホは、またオークションで20万円でお買い上げいただきました。
けっこう長く楽しんだアメ車生活ですが、平成29年の退職を機に終焉を迎えます。チームの野球道具を積み込む必要もなくなり、収入に応じた燃費(笑)の車にしようということと、山仕事にも使えるということでジムニー探しが始まります。結果的にエスカレードは40万円でお買い上げいただき、ジムニーは群馬からの出品されていた平成5年のJA11を12万円で落札。再びの軽ライフに戻りました。今後も、ジムニーとサンバーの2台を大事に乗り続けていくつもりです。

写真は群馬に引き取りに行った時の物です。
今回で私の愛車遍歴は終わりですが、まだ入院が長引きそうなので、次回は奥さん編でも書こうかなと思います。
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10:46
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2021年08月16日
愛車遍歴 その3
【第二定職期~大容量化期】
平成9年からは二度目の定職に就くことができ、このあたりから趣味と実益を兼ねた車に目が行くようになってきました。仕事で大人数を乗せたり、野球チームの選手の荷物やチームの野球道具を大量に運搬する必要が生じたことから、普通車のバンに目が行きだします。そんな時に家の近くの中古車屋さんで見つけたのが、トヨタダイナ。ミニカトッポを下取りに出し、手出し20万円で側購入。この時点から、奥さんの足はパジェロミニに変わります。

実際の車は写真よりも一つ古い型で、もう少し角ばっていました。
9人乗りで、荷物もたっぷり積めるところは予定通りでしたが、想定外だったのは乗り心地。この車、ボディの下は2tトラックそのもので、後部座席の人は、段差を乗り越えるたびに座席からお尻が浮くほど飛び跳ねてました。笑
飛びすぎて頭を天井にぶつけ、気を失って夢を見ているうちに現着するということで、「ドリーム号」と名付けられましたとさ。
バッテリーは24Vのため、電装品も今までの物は使えず、タイヤ交換にしてもバカでかいナットのため工具一つ一つ新たに購入していきました。3t用フロアジャッキもこのころに購入しました。ところが、職場の方針が仕事で自家用車に人を乗せて移動するのは慎むようにということになり、毎日引っ張りまわしている後部の大空間がもったいなく感じ、なんでそうなったかはよく覚えていませんが「キャンピングカーに改造」へと進んでいきます。概要はネットで調べ、ある程度の構想を盛岡の陸運支局に電話して確認という作業を何回か繰り返し、あとは車内でトントンカンカン大工仕事で内装を仕上げていきます。流し台、給排水設備、調理用火器周りなども基準通り設置し、いざ盛岡に実車を持ち込んでの車検。打ち合わせの成果が出て、一発合格。晴れて8ナンバーを装着したのでした。このダイナでは、家族4人で北海道旅行にも行き、これまた思い出の多い車になりました。後部座席では相変わらず段差のたびに子供二人が飛び跳ねていましたが。
その後ある程度落ち着いた日々?が続きましたが、ダイナで火がついたキャンピングカーへの関心はトロトロ燃え続けていました。平成14年だったと思います。ある時通勤途上の中古車屋さんに止めてある車に目が釘付けになりました。それがこちら

シボレーアストロ。左ハンドルのアメ車です。排気量は4300㏄。日本での人気の最盛期は過ぎていた車ですが、もうどうにも止まりません。ほぼ業者の言い値の130万円でお買い上げ!残念なことにFRでしたが、車重がものを言って、「急」な操作をしない限り雪道でも不安はありませんでした。車幅2mのゆったり感、総革張りシート、リアシートは電動であっという間にフルフラットのベッドに早変わり。天井には様々なイルミネーションランプ。かなりリッチな気分に浸れる車でした。このアストロでも、2回目の北海道家族旅行に行きました。でも普段の週末はフルフラットベッドの上にはチームの野球道具状態でした。実はこのアストロ購入時点で10年落ち、13万キロ走行。かなりガタも来ていました。故障のたびに専用工具を探し求め、リペアマニュアルを見ながら修理して4年間、27万キロまで乗り続けました。そしてついにシフトチェンジのショックが大きくなってきたことに伴い、買い替えを考えますが、ネットで探していたのはやはりアストロ。オークションで40万円で落札、神奈川からやってきたのが2代目アストロです。

今回のは初代と比べて質素でしたが、AWD、四駆です。
大きな故障もなく快調に走ってくれました。次の衝撃が走るまで3年間頑張ってくれました。
平成9年からは二度目の定職に就くことができ、このあたりから趣味と実益を兼ねた車に目が行くようになってきました。仕事で大人数を乗せたり、野球チームの選手の荷物やチームの野球道具を大量に運搬する必要が生じたことから、普通車のバンに目が行きだします。そんな時に家の近くの中古車屋さんで見つけたのが、トヨタダイナ。ミニカトッポを下取りに出し、手出し20万円で側購入。この時点から、奥さんの足はパジェロミニに変わります。

実際の車は写真よりも一つ古い型で、もう少し角ばっていました。
9人乗りで、荷物もたっぷり積めるところは予定通りでしたが、想定外だったのは乗り心地。この車、ボディの下は2tトラックそのもので、後部座席の人は、段差を乗り越えるたびに座席からお尻が浮くほど飛び跳ねてました。笑
飛びすぎて頭を天井にぶつけ、気を失って夢を見ているうちに現着するということで、「ドリーム号」と名付けられましたとさ。
バッテリーは24Vのため、電装品も今までの物は使えず、タイヤ交換にしてもバカでかいナットのため工具一つ一つ新たに購入していきました。3t用フロアジャッキもこのころに購入しました。ところが、職場の方針が仕事で自家用車に人を乗せて移動するのは慎むようにということになり、毎日引っ張りまわしている後部の大空間がもったいなく感じ、なんでそうなったかはよく覚えていませんが「キャンピングカーに改造」へと進んでいきます。概要はネットで調べ、ある程度の構想を盛岡の陸運支局に電話して確認という作業を何回か繰り返し、あとは車内でトントンカンカン大工仕事で内装を仕上げていきます。流し台、給排水設備、調理用火器周りなども基準通り設置し、いざ盛岡に実車を持ち込んでの車検。打ち合わせの成果が出て、一発合格。晴れて8ナンバーを装着したのでした。このダイナでは、家族4人で北海道旅行にも行き、これまた思い出の多い車になりました。後部座席では相変わらず段差のたびに子供二人が飛び跳ねていましたが。
その後ある程度落ち着いた日々?が続きましたが、ダイナで火がついたキャンピングカーへの関心はトロトロ燃え続けていました。平成14年だったと思います。ある時通勤途上の中古車屋さんに止めてある車に目が釘付けになりました。それがこちら

シボレーアストロ。左ハンドルのアメ車です。排気量は4300㏄。日本での人気の最盛期は過ぎていた車ですが、もうどうにも止まりません。ほぼ業者の言い値の130万円でお買い上げ!残念なことにFRでしたが、車重がものを言って、「急」な操作をしない限り雪道でも不安はありませんでした。車幅2mのゆったり感、総革張りシート、リアシートは電動であっという間にフルフラットのベッドに早変わり。天井には様々なイルミネーションランプ。かなりリッチな気分に浸れる車でした。このアストロでも、2回目の北海道家族旅行に行きました。でも普段の週末はフルフラットベッドの上にはチームの野球道具状態でした。実はこのアストロ購入時点で10年落ち、13万キロ走行。かなりガタも来ていました。故障のたびに専用工具を探し求め、リペアマニュアルを見ながら修理して4年間、27万キロまで乗り続けました。そしてついにシフトチェンジのショックが大きくなってきたことに伴い、買い替えを考えますが、ネットで探していたのはやはりアストロ。オークションで40万円で落札、神奈川からやってきたのが2代目アストロです。

今回のは初代と比べて質素でしたが、AWD、四駆です。
大きな故障もなく快調に走ってくれました。次の衝撃が走るまで3年間頑張ってくれました。
Posted by きこりや at
09:08
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2021年08月15日
愛車遍歴 その2
【子育て期~転職期】

昭和60年に結婚そして第一子の誕生と続き、それからなんと平成4年までの7年間、我が家はスバルサンバートライ1台で家族3人生活しました。しかし平成4年に第ニ子が誕生し、二手に分かれての移動機会が増えたことなどから、翌平成5年についに2台目の購入に踏み切りました。
軽ワンボックスの利便性に慣れていたので、狭い車はなんとなく却下。でも贅沢は禁物ということで、三菱のミニカトッポ(中古)になりました。

実際の車は白でした。この車もコーナーでは多少揺らつきましたが、550㏄のサンバーに比べて660㏄パワーがものを言い、きびきびと走り回ってくれました。
さらに翌年の平成6年、10年目を迎えるサンバーの次の車を模索していたところ、「三菱からいいのが出るから!」とお店の人に一押しされたのがパジェロミニでした。
仕上がりで160万円くらい。しかも、下取り金額は微々たるものだから、サンバーは実際には持ってこなくてもいいとのこと。これには大喜びで飛びつきました。たぶん、近所ではパジェロミニ第1号だったと思います。

2台目の新車購入で、我が家は一気に軽自動車3台持ちになりました。
この年から3年間は私の転職期で、毎年勤務先が変わりましたが、パジェロミニで快適に移動できました。大きな荷物を運びたいときにはサンバーが活躍。奥さんもミニカトッポでピュンピュン走り回っていました。新婚当初に比べて何と贅沢な状況でしょう。
それから、この3年間、多少収入が減ったことと興味があったのが重なり、車の車検はユーザー車検で受けるようになっていきました。

昭和60年に結婚そして第一子の誕生と続き、それからなんと平成4年までの7年間、我が家はスバルサンバートライ1台で家族3人生活しました。しかし平成4年に第ニ子が誕生し、二手に分かれての移動機会が増えたことなどから、翌平成5年についに2台目の購入に踏み切りました。
軽ワンボックスの利便性に慣れていたので、狭い車はなんとなく却下。でも贅沢は禁物ということで、三菱のミニカトッポ(中古)になりました。

実際の車は白でした。この車もコーナーでは多少揺らつきましたが、550㏄のサンバーに比べて660㏄パワーがものを言い、きびきびと走り回ってくれました。
さらに翌年の平成6年、10年目を迎えるサンバーの次の車を模索していたところ、「三菱からいいのが出るから!」とお店の人に一押しされたのがパジェロミニでした。
仕上がりで160万円くらい。しかも、下取り金額は微々たるものだから、サンバーは実際には持ってこなくてもいいとのこと。これには大喜びで飛びつきました。たぶん、近所ではパジェロミニ第1号だったと思います。

2台目の新車購入で、我が家は一気に軽自動車3台持ちになりました。
この年から3年間は私の転職期で、毎年勤務先が変わりましたが、パジェロミニで快適に移動できました。大きな荷物を運びたいときにはサンバーが活躍。奥さんもミニカトッポでピュンピュン走り回っていました。新婚当初に比べて何と贅沢な状況でしょう。
それから、この3年間、多少収入が減ったことと興味があったのが重なり、車の車検はユーザー車検で受けるようになっていきました。
Posted by きこりや at
10:57
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2021年08月14日
愛車遍歴
入院もいよいよ1か月が近づいてきました。ベッドとベッドわきの小スペースで、起きたり寝たりの繰り返し。食事はなし。
おそらく入院前だったら、「それじゃ気が狂う」と思うことだろうな。
それでも、現実にはこうやって平常心で生きていられるんだから、人間の適応力ってすごいのかも。ただそれも、やはり看護師さんの支えがあってこそですね。
今回は自分が乗り継いできた車をふりかえってみようと思います。
【免許取り立て~結婚まで】
最初にマイカーとして乗ったのは、日産のバイオレット。中古です。
兄貴からのおさがりでした。ちなみに兄貴はカローラレビンに乗り換えていました。

このバイオレットで、さっそく日立のいとこのところまで地図を助手席に下道長距離運転にチャレンジしました。
また、晩秋には葛巻の友達のところに泊まりに行き、帰り道の峠の凍結路でスリップし、ガードレールにコッツンコッツンとぶつかりながら1回転したのを覚えています。ノロノロ運転していたのが幸いでした。
バイオレットは、1600㏄用のボディだったのですが、私のに載っているエンジンは1400㏄だったため加速が悪く、気分的にはあまりよろしくなかった記憶があります。
ということで、バイオレットとの付き合いは1年だけで、翌年には乗り換えてしまいます。
2台目となったのが日産チェリーFⅡ。こちらも結構な中古です。どれくらいって、バイオレットより古い!笑
車両本体20万円、バイオレット下取り20万円、支払いは諸費用のみ。といっても、何もわからないペーペーのころだったので、今思い起こせば最悪でも持ち出しなしにはできたことでしょう。

こちらは排気量こそバイオレットと同じ1400㏄でしたが、SUツインキャブというものが装着されており、アクセルをグイっと踏み込むと燃料もガバっと供給される仕組みで、加速性能はベリーグッドでした。信号待ちで並んだ車には絶対出だしでは負けないみたいな変な意地を張って乗り回しました。ハンドル、ホイール、タイヤ、ショックなどなど次々とクレジットを組んで買い足していきました。
チェリーでも、雪道で側地帯にジャンプしてクレーンで上げてもらったりしましたが足かけ4年間乗ったことになります。愛着のあるチェリーでしたが、結婚を機に手放すことにしました。最大のネックはギヤチェンジの難しさ。奥さんになる予定の人がうまくギヤチェンジできず、「これには乗れない」ときっぱり。今考えれば、奥さんの車を買えばいいだけじゃない?となるのですが、当時、車を2台持とうという感覚は二人ともなく、二人で1台で生活していくのが夫婦として当然みたいな思いだったように記憶しています。
そういう考えで探した結果、車屋さんのお勧めもあって購入したのがスバルサンバートライでした。昭和60年のことです。

しかも、今回は初の新車。込々100万円。私には、チェリーのクレジットの残債しか残っていなかったので、まるっと奥さんの貯金でお買い上げ。笑
このサンバーには、新婚生活、子供との暮らしなど、実にたくさんの思い出が詰まっています。度重なる事故にもめげず、今でも現役で我が家の車庫にいます。
おそらく入院前だったら、「それじゃ気が狂う」と思うことだろうな。
それでも、現実にはこうやって平常心で生きていられるんだから、人間の適応力ってすごいのかも。ただそれも、やはり看護師さんの支えがあってこそですね。
今回は自分が乗り継いできた車をふりかえってみようと思います。
【免許取り立て~結婚まで】
最初にマイカーとして乗ったのは、日産のバイオレット。中古です。
兄貴からのおさがりでした。ちなみに兄貴はカローラレビンに乗り換えていました。

このバイオレットで、さっそく日立のいとこのところまで地図を助手席に下道長距離運転にチャレンジしました。
また、晩秋には葛巻の友達のところに泊まりに行き、帰り道の峠の凍結路でスリップし、ガードレールにコッツンコッツンとぶつかりながら1回転したのを覚えています。ノロノロ運転していたのが幸いでした。
バイオレットは、1600㏄用のボディだったのですが、私のに載っているエンジンは1400㏄だったため加速が悪く、気分的にはあまりよろしくなかった記憶があります。
ということで、バイオレットとの付き合いは1年だけで、翌年には乗り換えてしまいます。
2台目となったのが日産チェリーFⅡ。こちらも結構な中古です。どれくらいって、バイオレットより古い!笑
車両本体20万円、バイオレット下取り20万円、支払いは諸費用のみ。といっても、何もわからないペーペーのころだったので、今思い起こせば最悪でも持ち出しなしにはできたことでしょう。

こちらは排気量こそバイオレットと同じ1400㏄でしたが、SUツインキャブというものが装着されており、アクセルをグイっと踏み込むと燃料もガバっと供給される仕組みで、加速性能はベリーグッドでした。信号待ちで並んだ車には絶対出だしでは負けないみたいな変な意地を張って乗り回しました。ハンドル、ホイール、タイヤ、ショックなどなど次々とクレジットを組んで買い足していきました。
チェリーでも、雪道で側地帯にジャンプしてクレーンで上げてもらったりしましたが足かけ4年間乗ったことになります。愛着のあるチェリーでしたが、結婚を機に手放すことにしました。最大のネックはギヤチェンジの難しさ。奥さんになる予定の人がうまくギヤチェンジできず、「これには乗れない」ときっぱり。今考えれば、奥さんの車を買えばいいだけじゃない?となるのですが、当時、車を2台持とうという感覚は二人ともなく、二人で1台で生活していくのが夫婦として当然みたいな思いだったように記憶しています。
そういう考えで探した結果、車屋さんのお勧めもあって購入したのがスバルサンバートライでした。昭和60年のことです。

しかも、今回は初の新車。込々100万円。私には、チェリーのクレジットの残債しか残っていなかったので、まるっと奥さんの貯金でお買い上げ。笑
このサンバーには、新婚生活、子供との暮らしなど、実にたくさんの思い出が詰まっています。度重なる事故にもめげず、今でも現役で我が家の車庫にいます。
Posted by きこりや at
13:34
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2021年08月06日
残念ながら入院延長
おとといの食事後、またというか、やはりというか、残念ながらよくない兆候が出て、投薬・絶食の治療を再び行うことになりました。パターンとしては、リンパの漏れを止める癒着剤投入後、一週間の絶食、その後食事を再開して様子を見る。問題なければ退院へカウントダウンとなる感じです。手術以来、胸横からの2本のドレーンはずっとつきっぱなしですが、違和感はあるものの体の一部化してきています。例えるなら、胸にベルトを巻かれてリードをつけられている犬の気分です。
これまでの間に、病室の移動が3回ありました。そのたびに同室の隣人さんは変わるのですが、8年前、7年前そして今回と入院してみての「病室の隣人あるある」を書いてみようと思います。
【その1 鬼のいびき】
文字通り、いびきが凄い人。これは毎回いましたが、今回出会った人はまさに「鬼」でした。何が凄いってその持続力。あの晩はオリンピックの野球の準決勝、日本対韓国の試合の日でした。その日は、手術が多く(?)同じフロアのベッドが足りなくなったため一つ下のフロアに移動していました。で、夜になり準決勝。山田哲人のフェンス直撃3点タイムリー2塁打で日本が逃げ切り、決勝進出決定。11時過ぎにTVを消して眠りについたのでした。周りの隣人たちも何となく同様の気配がしていたので、皆TV観戦していたようでした。ところが、夜中の1時過ぎに目が覚めました。術後はよくそんなこともあったので特に気にせずまた眠ろうとしたのですが、ちょっとだけ隣人のいびきが大きいのに気づきました。それでも、もっと大きい人と旅先で一緒になったこともあるし、そのうち静かになるだろうと思っていたのですが、そこから途切れない途切れない・・・・・。2時・・・・3時・・・・4時・・・・。ほぼ100%いびき呼吸の人にはじめてお会いしました。4時過ぎに看護師が様子を見に来た時には目を覚まし「痛い、痛い」の連発。えーーーーーっ!今まで大いびき書いて寝てましたよって教えてあげようかと一人でにやけてしまいました。ま、骨折して入院した方のようだったので、そんなものかと思いますが。そして、あれやこれや看護師に手当てしてもらった後は・・・・再びの大いびき。4時過ぎれば外も少し白んでくるので、いまさら寝れなくてもいいや考えながら・・・・5時・・・・6時・・・・止まない!!正に「鬼」のいびきでした。
ちなみに、この日の日中、「昨夜は環境が変わってたいへんだったみたいですね」と看護師に言われ、同フロアの別の部屋に移動したのでした。部屋移動の真の理由はわかりません。
【その2 何事も音が大きい人】
このタイプの方々は得てして耳が悪い場合もあるのですが・・・。
何よりも話す声が大きい。携帯の着信音も大きい。電話もベッドの上で全力で話す。ベッドわきのロッカーの引き出しは最大まで(ガタンと音がして止まるまで)引き出す。ものを置くというより投げ入れる。引き出しを占めるときはバタンと音を出して閉める。食事の時はカチャカチャ音が止まない。お椀の蓋を置く音が大きい・・・・。まったく悪気がないことはもちろんわかります。家長としての生活が長かったんだろうなと推測してしまいます。
でも、食欲がない、とか少し吐き気がするなどという言葉を聞くと、「決して弱みを見せない、昭和の男」ともいえるかもしれません。
明治生まれだった自分のじいちゃんと重なるところもありますね。
これまでの間に、病室の移動が3回ありました。そのたびに同室の隣人さんは変わるのですが、8年前、7年前そして今回と入院してみての「病室の隣人あるある」を書いてみようと思います。
【その1 鬼のいびき】
文字通り、いびきが凄い人。これは毎回いましたが、今回出会った人はまさに「鬼」でした。何が凄いってその持続力。あの晩はオリンピックの野球の準決勝、日本対韓国の試合の日でした。その日は、手術が多く(?)同じフロアのベッドが足りなくなったため一つ下のフロアに移動していました。で、夜になり準決勝。山田哲人のフェンス直撃3点タイムリー2塁打で日本が逃げ切り、決勝進出決定。11時過ぎにTVを消して眠りについたのでした。周りの隣人たちも何となく同様の気配がしていたので、皆TV観戦していたようでした。ところが、夜中の1時過ぎに目が覚めました。術後はよくそんなこともあったので特に気にせずまた眠ろうとしたのですが、ちょっとだけ隣人のいびきが大きいのに気づきました。それでも、もっと大きい人と旅先で一緒になったこともあるし、そのうち静かになるだろうと思っていたのですが、そこから途切れない途切れない・・・・・。2時・・・・3時・・・・4時・・・・。ほぼ100%いびき呼吸の人にはじめてお会いしました。4時過ぎに看護師が様子を見に来た時には目を覚まし「痛い、痛い」の連発。えーーーーーっ!今まで大いびき書いて寝てましたよって教えてあげようかと一人でにやけてしまいました。ま、骨折して入院した方のようだったので、そんなものかと思いますが。そして、あれやこれや看護師に手当てしてもらった後は・・・・再びの大いびき。4時過ぎれば外も少し白んでくるので、いまさら寝れなくてもいいや考えながら・・・・5時・・・・6時・・・・止まない!!正に「鬼」のいびきでした。
ちなみに、この日の日中、「昨夜は環境が変わってたいへんだったみたいですね」と看護師に言われ、同フロアの別の部屋に移動したのでした。部屋移動の真の理由はわかりません。
【その2 何事も音が大きい人】
このタイプの方々は得てして耳が悪い場合もあるのですが・・・。
何よりも話す声が大きい。携帯の着信音も大きい。電話もベッドの上で全力で話す。ベッドわきのロッカーの引き出しは最大まで(ガタンと音がして止まるまで)引き出す。ものを置くというより投げ入れる。引き出しを占めるときはバタンと音を出して閉める。食事の時はカチャカチャ音が止まない。お椀の蓋を置く音が大きい・・・・。まったく悪気がないことはもちろんわかります。家長としての生活が長かったんだろうなと推測してしまいます。
でも、食欲がない、とか少し吐き気がするなどという言葉を聞くと、「決して弱みを見せない、昭和の男」ともいえるかもしれません。
明治生まれだった自分のじいちゃんと重なるところもありますね。
Posted by きこりや at
09:18
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